八橋かきつばた園(愛知県知立市)に行ってきました。
無量壽寺の本堂裏に広がる、かきつばたの名所です。
このページには、八橋の地名の由来と、地名に関する物語をまとめておきますね。
八橋の地名の由来
昔、この地を流れる逢妻川は、蜘蛛の足のように8つに分かれていました。
その川に8つの橋を架けたことから八橋と呼ぶようになったと言われています。
「八橋かきつばた園」のかきつばた池には、当時を偲ばせる8つの橋が連なっていました。
伊勢物語にも「そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける」とあります。かきつばたの和歌を詠んだ在原業平が主人公のモデルとされる、平安時代の歌物語です
羽田玄喜・師孝尼と子供たちの物語
八橋に伝わる、地名の由来に関する物語です。
昔、ここが「野路の宿(のじのしゅく)」と呼ばれていた頃、羽田玄喜(げんき)という医師が、荘司の娘である妻と2人の男の子と暮らしていました。
しかし、玄喜は若くして病気で亡くなります。母親は慣れない畑仕事などをしながら、子供と一緒に慎ましく過ごしていました。
ある日、母親は子供を家に残して海藻をとりに出かけました。
子供たちは母親が恋しくなり、川辺まで来ました。向こう岸に母親を見つけて駆け寄ろうとしましたが、誤って水に落ちて亡くなってしまいました。
悲しみに暮れた母親は無量壽寺に入り「師孝尼(しこうに)」という名前の尼になりました。
師孝尼は子供の菩提を弔い、観音様に「橋さえあれば…」と祈り続けます。
そんなある夜、「岸辺に打ち寄せた材木で橋を架けなさい」と夢のお告げがありました。
師孝尼が岸辺に行くと、そこにはお告げ通り沢山の木材が。師孝尼は幾筋にも分かれる川の流れに合わせ、互い違いに板を渡して八つの橋を完成させました。
村人は橋の数にちなみ、この地を八橋と名付けました。承和9年(842)5月のことです。
現在、2人の子供の墓は無量壽寺の境内に。
師孝尼の供養塔は在原寺の境内に建っています。
在原寺は業平の菩提を弔うための業平塚が築かれた際、塚を守る人の御堂として建立されたと伝わるお寺です。
八橋と本家西尾八ッ橋【京都銘菓】
羽田玄喜と師孝尼の故事から生まれたのが「本家西尾八ッ橋」の八ッ橋です。
元禄2年(1689)に、西尾家の先祖が物語に感銘を受け、橋の形に似せた米粉のせんべい菓子を作って八ッ橋と名付けたと言われています。
京都銘菓である八ッ橋、あんなま、生八ッ橋の元となったせんべいです。
上の写真は、史跡八橋かきつばたまつりで購入した「かきつの香り(250円)」。
かきつばたをイメージして、薄紫色の生八ッ橋で白いんげんのこしあんを包んでいます。
お祭り期間中に会場でしか買えない、特別で上品な八ッ橋です。
まとめ|三河八橋駅
最後までお読みいただきありがとうございます。
このページの要点をまとめました。
- 川の流れに合わせ、8つの橋を架けたのが八橋の地名の由来
- 当地には地名に関する物語も伝わっている
- 京都土産の定番・八ッ橋も、三河八橋と深い関係がある
なお、名鉄三河八橋駅は知立市八橋町のすぐ近く「豊田市花園町」にありますよ。
参考文献など
- 八橋|精選版 日本国語大辞典|コトバンク
- ビギナーズ・クラシックス 伊勢物語(坂口由美子,角川ソフィア文庫,2007)
- 八橋の地名のおこり|知立市
- 八橋|まんが日本昔ばなしデータベース
- 史跡八橋かきつばた園 案内板「伝説羽田玄喜二児の墓」
- 参拝のしおり「三河国八橋 八橋山 無量壽寺」
- まんが版八ッ橋誕生物語|本家西尾八ッ橋
- かきつばたの名勝地 三河国八橋(八橋旧蹟保存会,2021)